2-1)「意欲・関心」 が学校での評価の対象となることに関する意識調査 【第2回 2000/10~11】
「意欲・関心」 が評価の対象となることに関する意識調査
設問
3 今の指導要領から 「意欲・関心」 が評価の対象となっています。これについてどうお考えですか? | ||
未選択 そのことによる問題はない どちらともいえない 問題である よろしければ理由をご記入下さい |
結果
選択肢 | 人数 | 自由欄記入数 |
そのことによる問題はない | 873 | 79 |
どちらともいえない | 1276 | 98 |
問題である | 528 | 363 |
総計 | 2677 | 540 |
理由欄にご記入いただいた内容
問題であると答えた方分
- 恣意的な判断が介入する
- 目に見えないものを形にして評価しようというのは問題
- 無関心も個性の一部だから
- 勉強は結局はやる気です。
- 勉強の出来が悪くても意欲や関心があるということを認めることは大事だから。
- 勉強の強制化によって、意欲を持つような物事を奪われていると思う。
- 勉強の意欲や関心を向けさすようにするのも先生の仕事
- 勉強じたい進むのが早く関心などもてる余裕すらないと思う
- 平等に見れるなら問題ないけど・・・
- 物事に関する、感心、意欲は、大切なことだと思う。
- 幅広い関心?一つに専念する事?だいいち、高ければいいの?低いといけないの?
- 評価方法はどうなるの?
- 評価基準があいまいでは?
- 評価基準があいまい
- 評価基準があいまい
- 評価は一人の担任からは難しい
- 評価の対象になること自体は好ましいと思いますが、意欲・関心を本当に教師が正当に評価できるのか疑問です
- 評価の仕様が無いものを無理やりこじつけているように思える。現状、先生の側にもおおいに問題があると思うが、それを子供側にすりかえる手段になってしまいそうだ。
- 評価の基準をどうやって規定するんでしょうか?
- 評価の基準が曖昧
- 評価の基準が曖昧
- 評価の基準が統一されているのか?
- 評価の基準がわからない
- 評価ではなく、意欲、関心を持つような指導が必要
- 評価できるものではないから
- 評価する側の主観によって大きく左右されるから。
- 評価する側の主観によって大きく左右される
- 評価する側の主観が入ってよくないと思う
- 評価する側の資質が問われると思います。
- 評価する人によって基準が変化するため
- 評価する人にどれだけの事がわかるか疑問です。
- 評価する者の価値判断の基準に不安を覚える。
- 評価する教師の能力にあまりにも差があるし、同じことでも教師の捉え方で評価が必ず違ってしまうから。
- 評価するものの私見が入る
- 評価するのが人間であれば必然として感情というものがからんでくると思う
- 評価が適切に下されるか疑問
- 評価が教師の独断にゆだねられる事が心配
- 評価があいまい
- 表面だけでは意欲があるかないかなんて判るわけがないのに、と思います。要領が良いと得だと思います、、、、、。
- 表現力のない子に不利である。
- 犯罪が若い人達に多くなっているから
- 判断基準が属人的である
- 判断基準
- 判断の方法
- 判断する人の主観も左右するため
- 漠然としていて具体的ではない。
- 能力佐賀益々広がる
- 能力の個人差の埋め合わせ
- 内面的なものだから、正しく評価することは、不可能だと思う。
- 内申書と同じようなもの
- 得意科目に時間を多く割きたい
- 点を取るだけの学習に意欲や関心がわくかわからないから。
- 的確に評価できるものではないから。
- 担任が幅広く生徒の興味をフォローできればいいのだけれど。
- 担当の先生の主観的な判断が、果たして正当な評価なのかが疑問である。今の成績評価も疑問なのに、意欲/関心などは、実に抽象的なものなので、その担当の先生の能力次第だと思う。先生に対する評価を付けたい位です。(今、子どもの担任はとても良い先生なので、安心なのですが...、この先生みたいな方ならば、安心なのですが)
- 誰が評価するの
- 誰がそれを評価するのか???評価できる人物はいるのか?
- 第三者からは見えないものだと思う。外見だけで意欲・関心はあまりわからない。思っていることを外に出さない、出せない子だっているのに表面だけを見るのではないかと思う。
- 大人が関心を持ってほしい事を、子供によっては興味を示さないことがあると思う。やる気が出るか否かは、指導する先生によって左右されることがあると思います。子供と先生の合性が悪いと、やる気なんか出ませんよね。
- 大人からみて、その意欲が本物か見せかけか見極めるのはかなり難しいと思う。現在でさえ正当な評価といえないのではないかと思っている。
- 大事なものを点数で区別すべきじゃない
- 他人の痛みが判らない人間が多くなるのでは
- 他人が判断できるわけがない
- 測る尺度が、テスト以上に概念化してしまう。校長および教育委員会の制度が改まらなければ公平な判断がなさてれいるより、付届けを心配した方がよい形になるだろう。
- 選択肢が少ないのに意欲を求めてもだめ
- 先生次第である。客観的でない
- 先生の前でだけいい子ぶる子が出てくるから
- 先生の主観はどこまで考慮するのか?
- 先生の主観(好き嫌い含む)に左右され易い
- 先生に好かれようとする生徒が増えるから
- 昔から教える側がアホだから
- 生きる目的を教えていない
- 正当な評価が困難.学習する内容にもよる.
- 正確な評価ができないはず。
- 人間は様々な考え方、生き方があり、1つのことで評価してはいけないと思うから。
- 人間、意欲・関心は大切。
- 人はそれぞれであり考え方や好き嫌いもそれぞれ。単純に意欲ゴ愎瓦・覆い・蕕箸い辰討修譴派床舛鬚垢襪里呂・・靴ぁ」
- 人それぞれ。意欲ご愎瓦世韻派床舛気譴燭・覆ぁ。
- 心理量の測定・評価は困難だと思います。それを現場の、現在の、教員が本当に正当に出来るのでしょうか?
- 小学校・中学校では学力より、その学力を身につける意欲の方が何倍も重要だと思うから。
- 将来にたいして夢を描けない、個性のない子を育てているような気がする
- 社会全般が無気力子供だけではない
- 社会は結果を求める。意欲・関心がどうすれば成果に結びつくのかを教えるのも教育。
- 社会に必要とされる人間本来の心の教育が必要
- 自分の素直な感情を表現出来る場を失う
- 自分の意思が評価される
- 自分で考え判断出来なくなるのではと思う
- 自己表現の下手な子供には不利になるような気がする。
- 私は中学生ですが、やっぱりヒイキとかありますよ。
- 指導者の主観的な評価になる
- 指導者によって意欲・関心度が変わってしまう。
- 指導する側に意欲・関心がない。
- 子供は教える側の意欲等にもより・嬪漾ゴ愎苅の度合いは変わってくると思う。
- 子供の生活環境が考えさせられる
- 子供が何かに「意欲・関心」を持つことはよいことだと思うが、それが「評価の対象」となることがよく理解できない。先生一人が30~40人いる子供達の「意欲・関心」が解るのであろうか?
- 子供が意欲を持つのは、やはり何かのきっかけでそれ(興味を持てる何か)を知るから。親がそれを発見してあげるのも大切だけど、入学したら1日の内大きな時間を教師と過ごすのだから、教師にもその辺も大事にしてあげて欲しいと思う。仕事としての教師が近頃多いと思うから。
- 最近意欲のなさそうな人が大人でも多いので。。
- 最近は粘りがある人が少ない気がするから。
- 差別による評価の根源となる
- 今までの経済は高水準の教育によってなされてきたから
- 今までなかったのがおかしい
- 今の若い子は何でもあまり関心を示さなくなってきてるなと感じるから。
- 今の子供たちに意欲を感じない
- 今、国にそれらを高める力がなさそうに思われる。
- 好きな教科は伸びるから。
- 好きな教科は伸びるから。
- 好きな科目は意欲関心があるのは当たり前興味関心が無いのに意欲関心が無いのも当たり前
- 好きこそものの上手なれ
- 個性や理由はそれぞれなのに、ひとくくりにすること事態が問題。
- 個性,嗜好があるのに今の学校システムでは全ての事柄に意欲を持つことを押し付けるであろうし,評価の対象になるのであれば「意欲がある"フリ"をする生徒が生じ,歪んだ学びの姿になることが容易に想像できるから
- 個人差が出てきやすくなる!
- 個人個人の意欲ゴ愎瓦和梢佑犯羈咾垢戮④發里任呂覆ぁ。
- 個人の嗜好に関して評価できないと思います。
- 個人によって意欲・関心のあるものが違うから
- 個人が生まれ持った性格、とても抽象的な部分を、先生が評価するのは、いささか疑問。
- 見た目と本当は違う子もいる
- 結局は他人との比較をするため、塾に行くようになる
- 結果だけで評価すればよいから。
- 計る基準が不明瞭
- 興味が強いものでない限り評価が低くなる
- 教師側がどこまで見抜けるか、えこひいきがないか
- 教師はそれほど客観的に評価できる人物ばかりではない。
- 教師の主観的な判断になる
- 教師の主観に左右される
- 教師の主観で公平な評価を期待できない
- 教師の主観が評価に反映されるから。
- 教師の主観が入る評価となる.
- 教師の質が悪いのにどうしてそんなことが評価できるのか?
- 教師の私権が必ず入るので意欲や関心を正しく公正に評価できるのでしょうか。
- 教師の好みがでると思う。
- 教師の好きシ銈い・洞舛垢襪・・
- 教師にはんだんできるか疑問
- 教師が評価する問題ではない
- 教師が判定できるものか?
- 教師が生徒に持たすことが評価の対象にすべきである
- 教師がどのような基準でこれらを評価するかが大きな問題となる
- 教員も所詮は人の子です、どうしてそんなものがはかれるのでしょうか?疑問です。
- 教育現場の問題を見ていない
- 教える側の意欲は?と言いたい
- 教える側の意欲が教わる側に必ず反映すると思うし,その評価を第三者ではなく当事者である教師が一方的にするものであるから。
- 教える側に意欲と関心が十分でないと、教えられる側にそれが伝わらないから。教師の方たちは、子供達にそういったものを伝えることができるのか疑問がある。
- 客観的に評価できない。全員がA、またはBとしか付けようがないから問題がないと言えばないかもしれない。
- 客観的な評価がなされない
- 机の上の知識だけ
- 基礎のない子に大海原に出ろというようなものだ
- 基準を設けるべきものではないから
- 顔つきで判断されそう
- 関心や意欲を大人が評価するという態度が問題だと思う。押し付けられると逆にやる気をなくすという心理があると思う。
- 関心と実際の学力とは別問題でしょう。学力があっても内気な子供は評価が低くなってしまいます。このままでは日本の教育水準が低下する一方だと思うのですが。
- 関心がない=悪い、となったらやだな。
- 感性(感覚的)な事を評価対象にするのはおかしい
- 感情の表現がへたな子供が多い。
- 学力を認めてもらえない
- 学力の差が激しくなる
- 学校制度が子供の意欲・関心をそいでいるシステムだから。
- 学校の教師がそんなの見抜けますか??????
- 学級崩壊の言葉が蔓延していて
- 改革の必要は無い。
- 何処の学校でも同じ事してる
- 何事にも無意欲、無関心な子は将来が不安
- 何故勉強しなきゃいけないのか知っていた方がいいと思うし、個人の差で好き嫌いがあると思うから。
- 何に対する意欲・関心かが明確でない点
- 何に対してか、適正があるかが重要だから
- 押しつけられて、やることに慣れてしまっている
- 一部分しかみれないので評価の対象にはしてはいけないとおもう
- 意欲関心を向けるのが、教師の仕事だから、子供の評価を低くつけているということは、その教師の指導不足ということになると思う。
- 意欲関心は誰かにださせてもらえるものではない!
- 意欲関心が無いのが問題ではなく意欲関心を持たせない教育のしかたが問題
- 意欲を欲する教育が学校側で出来ているか疑問である
- 意欲を持たせるような教育環境ではない
- 意欲を計るものさしがない
- 意欲を強制させることで、子供が畏縮する。
- 意欲や関心は評価できない。3年寝たろうの話を思い出すべし
- 意欲や関心は他人にはわからないしそれを評価する方の適正が問題を起こすようでは問題外です。
- 意欲や関心は他人が決めることではないし、学校で定められた意欲の対象なんてくだらないものが多いと思う。
- 意欲や関心の向く先は個人それぞれ違うはずだから、一つの事柄で意欲や関心を評価するのは良くないと思う
- 意欲や関心などはある程度の年になれば演技できるから、評価対象にはあんまりならないのでは。
- 意欲や関心と言った曖昧なものは、人によって、評価が分かれるので、不公平な結果が生まれる可能性がある。
- 意欲や関心といっても、所詮教師の価値観に左右されるので、評価が曖昧。
- 意欲も関心も無い教師に判断できるのか?
- 意欲はなくても賢い子もいるので何を評価するものか分からない
- 意欲の無いものは余計に勉強をしなくなる
- 意欲の評価はしない方がいいのでは?興味は人によって違うモノだから。
- 意欲のはっきりした基準がない
- 意欲がないと感情が乏しくなる気がする
- 意欲がないために今の学校崩壊があるのだと思う。そして今のやり方では昔のようにというわけにはいかないと思う。休みが増えてゆとりを持てるのはよいことだが、それによって学力に差が出たり、塾に比重がかかってくるのは悪いことだと思う。
- 意欲がある態度を見せている人が必ずしも良く勉強しているわけではない
- 意欲・関心を評価するのは難しいと思う。
- 意欲・関心を客観的に計るのは難しいと思う。
- 意欲・関心をどう評価するのか、評価する側の力量が問われる。難しい問題。
- 意欲・関心は人間を評価する以前の問題
- 意欲・関心は人それぞれ、評価するのは?
- 意欲・関心は個性の現れであり評価すべき対象ではない。
- 意欲・関心は学ぶものではない。与えられるものだ。
- 意欲・関心ははっきりと目に見える形であらわれるものばかりではないから
- 意欲・関心の評価は難しい
- 意欲・関心についての正当な評価などありえない
- 意欲・関心なんていうメンタルな部分が教師に読みとれるとは思えない(見せかけに騙されるんじゃ?)
- 意欲・関心と言うものは、人それぞれ違うし、性格の問題だと思うから。
- 意欲・関心というと客観的に評価できるものではないから
- 意欲・関心がなければ、能力の向上はないと思う
- 意欲、関心をどうやって正当に評価するのか/できるのか
- 意欲、関心、は指導者の問題である
- わざわざ評価しないといけないほど意欲がないということがおかしい
- よくわからない抽象的なものでにげている。
- やりたくないことはしなくてもよいという傾向になりつつある気がする。
- モノ・選択枝が豊富ゆえ
- まさに教師による主観でしか評価できない
- ほんとに教師に評価できるか疑問
- なんにでも意欲を持てというのは無理である
- なくてもしなければいけないことが沢山ある
- なかなか一人の先生だけで評価できるものではない。
- どのように評価するのか分からない
- どう評価するのか
- どう判断するの?
- どうやって評価されるのか心配
- どうやって、はかるものなんでえしょ。というか計れるものなの。ある、なしであってそれで区別して評価するのってへんじゃないかなあ。
- ただやれば良いとゆうわけでわ無いから
- たかがあれだけの量や質では、つまらないと感じる子供も多いはず。
- そんな事が他人に判る筈が無いから
- そんなもんどうやって測る?
- それを評価する側の目が確かなのか気になる
- それを判断する教師によって評価が変わる。
- それを判断するのが人間であるということ。正確な基準がないのにそれが評価となってしまうことが怖い。
- それを見る教師のレベルがゥ。
- それを引出すのは当たり前で、その他のこと(知識、友達、道徳、運動)を教えるのが学校。
- それはおかしいと思う。人種差別に近い。
- それが無いとだ茲亘召瓩覆ぁ。
- そもそも・嬪漾Υ愎苅を引き出すのが教師の力量であって、・床腺するものではないと思う.
- その評価基準が明確になっていないと、格差が生じる。
- これまでの「内申書がどうのこうの」というのと変わらないし、目に見えないことをどうやって「画一的に(学校の成績と言うのは客観的につけざるを得ない仕組みだと思うので)」評価出来るのか考えると、逆に抑圧がおこりそうで恐ろしいと思う。簡単にいうと子供によけいに「かげひなた」ができてしまうのではないかという心配がある。
- これまでの「内申書
- ある程度の年齢からは興味があるものに重点をおくべきだと思う。
- ありすぎて書ききれません
- アピールが上手くできない子もいるから
- あくまでも先生の側から見た意欲・関心の度合いに過ぎない。
- あいまいではっきりとしていない。本当に子供のためにはならない。
- 「意欲・関心」があるかどうかを客観的に判断するのは難しいから。
- 「ない」という評価できないなら意味がない
- 「どうでもいい」と子供(生徒)の口からでているのを聞いた
- 目に見えないものをどうやって評価するの?
- 無気力な子供はどうすればよいのか
- 無関心無気力無責任の子供ができる
- 無関心なガキが多い
- 無関心=自己中心派となるのでは?
- 本当に意欲があるかどうかなんて本人以外はわからないと思うので、例えば本人が意欲があったとしても周りにはそうは見えないとしたら、それで意欲なしと評価されてしまうのは危険だと思う。
- 評価出来るものではない。
- 評価は主観によるものだから
- 評価の対象としての指針としては、いいかもしれないが、意欲・関心だけがその子を表しているとはいえないと思う。例えば、興味・関心があっても能力(向き不向き)があるかないかも少なからず個性としてあると思います。意欲・関心以外の尺度ももって評価をしたらいかがかと思います。
- 評価の客観性に問題がある
- 評価できるものか。
- 評価する先生の技能が問題になる。
- 評価する人に問題がある
- 評価する人にセンスがないかも知れない
- 評価する教師の資質に問題が多すぎる
- 評価する教師がだめ
- 評価するヒトによって評価は変わりうるから
- 評価するしないに関わらず「意欲」や「関心」は学校が指導うんぬんではなく家庭内でも生活環境でもあたりまえに評価されているものだから学校以前の所で個人的に指導していってほしいです。そういうことを評価の対象にしなれけばならない学校は他に評価することが無いほど教育そのものにたいして関心がなくなってしまったのでしょうか?
- 評価しにくいものだとおもう
- 評価が曖昧となる
- 評価が難しい
- 表面的に判断されるのでは
- 範囲が広すぎる
- 犯罪に結びつく懸念あり。心配。
- 判断する側に問題あり
- 判断する人間の主観が大いに入ってしまう。判断する人間に問題がある場合。
- 判断する人の基準が統一されていないと難しいのでは。とても主観的だと思う。
- 判断が難しいから
- 判断があいまいになりがちである
- 点数化できるものではないし、関心意欲の現れ方は千差万別だと思うから。
- 点数のみ重視も問題だけど、意欲・関心だけってものまずいだろう。
- 点数だけで決めるよりもいいと思うから
- 抽象的な判断だと、それを評価する教師の資質に左右されるのではないだろうか?現在、教師の資質が低い事が問題にされているのに、資質の低い教師にそんな高等な評価が、平等にされるとは、考え難い。
- 抽象的な尺度で優劣をつける事は 絶対評価の成績表以上に 先生の顔色を窺う事になりはしませんか?
- 抽象的な項目で評価することに疑問を感じる
- 知識欲が欠如している
- 誰でも好き々があるので
- 誰が評価するの?
- 誰が評価するかで異なったりしたら問題だと思います。きちっと平等にできるならいいですが・・・
- 他人にわかるもんか。
- 先生の判断基準に問題あり
- 先生の主観により、目に止まらない生徒は意欲があっても認められないし、好き嫌いがあるから。
- 先生の主観が入るから
- 先生の教え方によるから
- 先生のひいきがどうしてもある。先生に理解されにくい子が出来ないと評価される。
- 先生によるから
- 先生によって・・・
- 絶対的な評価ができないから
- 正しく評価出来る教師が何人いる
- 成績がすべてではない!
- 主観的になる
- 主観的な評価にそぐわない価値観である
- 主観的なりやすい
- 自由だ
- 自分の意欲などを表に現せない子には不利
- 持てない子はどうなるのか?
- 私が学生だった時は、もっと人間的に魅力のある先生が多かったと思うんですが。
- 指導要領そのものに問題あり
- 指導者の問題
- 指導者の質
- 子供のやる気は子供だけの問題では無いと思います。
- 子供に意欲や関心を持たせるのは教師の仕事.評価されるべきは教師の方.
- 最近は意欲のない若者がとっても増えてると思うので
- 個人的主観がかなり入ってしまう為
- 個人的に興味のないものに関して意欲、関心がないからといって評価されるのはおかしい。
- 個々の関心・意欲にも個々のペースがあると思います。それを評価するのは解せません。
- 見た目には意欲がなさそうでもある子はいる。それを判断できなかった場合はどうするんですか?
- 結果による評価が優先されるのであればよい。
- 結果がすべて
- 興味がもてないものを悪いといってもしかたない
- 教諭に能力が無い
- 教師の主観になる
- 教師の主観って当てにならない気がする
- 教師の主観が問題
- 教師の主観が入らざるをおえないから,修譴箸△錣擦討教師自身が自己反省をして、教育とはどうあるべきかを考え直すべきであると思うから
- 教師の主観がはいる。
- 教師の資質が非常に大切になること。
- 教師の教え方一つで意欲・関心をもてるかどうかが変わってくるのでクラスで評価がだいぶ変わってくると思うから。
- 教師に評価できる素養がない
- 教師によって「意欲・関心」の基準が違うから
- 教師がなってない
- 教え込むだけの教育しかしてない 自分が考えることを教えてない
- 客観的評価を行いため
- 客観的に判断できるものではない
- 客観的な評価が難しい
- 基準を作ること自体ばかげた事だと思う
- 関心を引く前にその事を知らなければ結局無駄になってしまうから意味がない。政府は学校以外の時間で他の関心を持つようにと言っているがそんなんで見つかる事はまずないし、探している人間は数少ないのだから、何も考えずに暮らしている人が多い中でどうやって子供の目を興味を示す物に持っていくかをもっと深く考えた方が得策だと思います。
- 関心がないからといって評価が少ないのはおかしい
- 関心があっても伴わないものがアル
- 学校の先生によって対応が異なり子供が先生を信用しなくなっている。
- 外からみても、本当のことは分からないので。
- 何事も興味があれば覚えるし、そうでなければ意味が無いと思う。授業を行うにあたって、その意味、理由を納得させたうえでスタートするべき。
- 何を持って、意欲・関心ととらえるのか。ましてそれをどう評価せよと言うのか疑問
- 何を基準にどういう評価をするのか、人間性評価は非常に難しい問題である。
- 何を基準とし、評価するか。うわべの評価になりやすい。
- 演技でごまかせるから
- 演技することになる
- 意欲関心を持てる教育を大人がしていない為
- 意欲を起こす教え方が出来るかどうか先生の質で決まる。
- 意欲のない子供が多いと思います。また、ゲームしか関心のない子供が多い。もっと社会や自然に関心を持たないとだめです。
- 意欲などの評価では先生の私情が必ずはさまれるだろうし、容量の良い悪いで評価されやすい。
- 「意欲、関心」は客観的に評価できない。
- 意欲があっても成績が悪かったらかわいそう
- 意欲・関心を他人、とくにおごっている教育者に判断できるとは思えない。
- 意欲・関心を演じる場合もあるから打ち出して大人が騒ぐべきではないと思う。
- 意欲・関心は人それぞれによって評価の仕方がちがってくる。
- 意欲・関心の評価基準があいまい
- 意欲・関心の対象が一人一人違うのにどうやって評価しようと言うのかわからない。
- 意欲・関心の出る授業をしてない先生の場合子供の責任ではないと思うから
- 意欲・関心といいますが、まず、子供達が自分は何が面白いと思うのか、何に関心があるのかと選べるだけの視野、世界の広さを学校は教えていないと思う。こんな勉強の仕方があったんだ、こんな進学の仕方があったんだ、こんな仕事があったんだというふうに気がついたころには、ちょっと遅いという生き方をしてしまった人が案外、私も含めて多いのではないかと思う。
- 意欲・関心がなきゃ勉強したいと思わない
- 意欲・関心があってもそれを表現できない子供もいるはずだから
- やりたいことをやらせることはなぜか日本ではあまりよくないとされてきたから
- ほとんどの教師に「意欲・関心」を見ることはできない。
- どのように評価するのか
- どのようにそれを判断するのか?
- どうやって、判断するのか
- そんなモンいちいち指導する物じゃない
- それ自体流動的だし、評価は主観的だから
- 「本質を見る」と言う事を伝えきれてないのが大きな問題だ
- 評価の基準が分からない。
- 評価の基準が分からない。
問題はないと答えた方分
- 良いことだと思う。
- 問題を思いつかない。
- 本人のやる気がなければ意味がない
- 望ましい評価であると思います。
- 勉強は教えられることよりも習いたいという気持ちが大切
- 勉強は教えられることよりも習いたいという気持ちが大切
- 勉強だけがすべてではない
- 勉強ができるかどうかよりも性格的なことの方が大切だと思うからです。
- 普通に勉強すりゃいいじゃん
- 評価はおかしいが、人間としてはごくごくあたりまえのこと
- 大切なことだと思う。評価が難しそうだが。
- 大切なことだから。
- 大いに評価すべき
- 常に向上心が無いと成長しないから。向上心と言うものは、意欲・関心・疑問などが無いと持てないものであるから。
- 上記でもあげたように狭い期間で見た場合には学力低下が起こるというデメリットしか見られないかもしれないが、勉強に対する意欲、あるいは必要性を感じにくい今の教育方式のままでは後々もっと悪い状況になりうると思う。
- 授業態度を評価するのはいいこと。
- 自分の頑張りが評価されたら励みになると思うから
- 自主性を伸ばせると思う。
- 今のこは消極的で無関心さが目立つので良い事だと思う
- 好奇心が持てた方がよいから。
- 現在は受動的すぎる
- 結構な事だとおもう
- 結果だけを重視するよりは良いのではないでしょうか
- 興味があるものを伸ばすことにつながるのならよいと思う。
- 教師が一人の生徒に関心を持つ事は重要だから。
- 関心を持つことは好きにつながりやる気が出るから
- 学力重視よりは良いと思う
- 何事も意欲なくしては行えない
- 何事にも興味を持つ事は必要だと思います。
- 何かに興味をもちそれを成し遂げるために重要だと思う
- 意欲を持てる授業は大切だし、そこから他の事も学べるとおもうから。
- 意欲や関心を持っている人ってほとんどいないような気がする
- 意欲や関心がなければ、どんなに塾にかよっても、身に付かないとおもうので。
- 意欲がなければ、いくら先生が努力して教えても覚えないので、そこを評価するのは必要だと思います。やる気がない学生は、周りのやる気もなくすので。
- 意欲がない生徒はだいたい協力的ではなく人格形成がしっかりしていない。
- 意欲があるか、どれだけ物事に関心をもてるかが、教育の上で大切だから
- 意欲・関心は大切だと思うから
- モノを知る・やってみるという意欲はとっても大切だと思う。
- むしろ良い考えだ。
- それも個性だと思うから。
- それはいいこと!!だから。
- そういったことを評価するのはよいことだと思う
- いいじゃないですか
- 「やってみたい」「どうして?」と思うことが、子どもには大切だと思うから。
- 良い事だと思う
- 無気力な人間が多いから
- 本人次第
- 勉強に限らず、何事も意欲・関心は必要である
- 評価の一つの尺度として大切と思う
- 評価されて良い
- 必要だから
- 当然
- 大人になって必要なことだから
- 専門家が増えると技術も進歩する
- 説明しにくい....
- 積極的な授業への参加に期待
- 受身でない事が重要
- 自分のやりたいことを選択できたり机の上の勉強だけにとらわれなくて自分で知りたいことを調べで言ったり出来ること
- 子供の内はやる気があるだけでも評価してあげるべきです。
- 最重要であると思う。
- 今の子供は意欲や感心があまり少ない子が多いと思うので評価の対象になればなんらかの変化が期待できると思うからです。
- 今の子供にとって必要なことだと思うから
- 個性やからいい
- 関心があってこそ、学習しようとし、それが学力の向上につながるから
- 何かに意欲や関心を持つことはすごく大事だから。人生楽しくなると思う。
- 意欲関心は、何に対しても必要と思う
- 意欲や関心がなくてもうまくできたり成績のいい子はいるし、意欲があってもうまくできなかったり成績が上がらない子もいるので、その子供の内面を見てあげることはとても大切な事だと思うから。
- 意欲や関心があることは、良い事だと思うから
- 意欲のある子供は、自ら進んでやるので。
- 意欲が有るとないでは
- 意欲,関心は第三者が問題にすべきことではない
- 意識しすぎると返ってよくないと思う
- やる気は大事。
- とても大事だとおもいます。
- とうぜん
- それが実行されているかが疑問
- そういうのを気にしてる子供は少ない。
- これも立派な評価対象
どちらともいえないと答えた方分
- 目に見えないものであるから、教師の資質が問われる
- 勉強しない子が増えるのでは?
- 評価の仕方が問題
- 評価する人による。
- 評価するものの主観で違ってくるのは問題。
- 評価するのも未熟な人間だというところに問題がありそう。こういうのは永遠のテーマですね。
- 判断する側の人間が問題!
- 点数だけで評価するのもどうかと思うけど、意欲関心だけで評価するのもどうかと思う。やっぱり、バランスが大切だと思う。
- 抽象的な評価しかできない。
- 狙いはいいが、意欲が湧くかどうかは結局教師の力量による
- 先生が見ているので、実際とは違うこともあるから
- 成績だけで評価も問題あるし意欲関心だけでも問題だと思うし難しいから
- 心を重視していく事は賛成
- 指導要項云々より、指導する立場の人間の能力次第だと思う
- 子供の年齢が低ければ低いほど、意欲・関心を引き出すのは保母や教師の責任。
- 子供の性格や見かけにもよると思う
- 最近は意欲のない子が多いと思うので、それを評価の対象とすることは子供達の意欲を高めることにつながるかもしれないが、もともと意欲をみせない子供にとっては、あえてそんな事を評価してもらいたくないという反発も出てくると思うから
- 最近の指導者の不信
- 項目自体に問題はないと思うけど、評価する側が現状のままでは良くないと思う。(先生受けのいい子だけが、良い評価)
- 個人によって興味関心のあるものは異なるので、それを評価することに意味があるのかと思います。評価することよりも興味関心を持てるように指導することのほうが大切だと思います。
- 見せかけだけで何とでもなる。
- 結局教師がなってないのが多すぎる
- 結局は文部省のおえらいさんがきめたこと
- 教師や学校側の姿勢の問題だと思います。
- 教師の判断力にかかっていると思う。うまく立ち回れる子供もいるし。でも、単に学力だけの評価よりはよいことだとは思う。
- 教師の判断、公平さにも限界が有ると思うから
- 教師の授業に対する取り組みにもよるので、子どもに対してそのような評価を行う事が、一概に良いとは言い切れない。
- 教育する教師のやり方が問題だと思います。
- 基準が曖昧になりそう。成績を決める側の裁量権が多くなる。先生に気に入られなかったら成績を悪くつけられそう。
- 関心を得る為に学力を低下させるよりもっと個人個人にあったプログラムにしたほうがいいにでは?
- 関心を受け止められるかが問題だと思う
- 感心があるから結果が出る、というものでもないので
- 学力が低くとも、意欲のある子はいる。しかし、意欲・関心があればそれだけでよいというわけではない。基礎学力を付けていくことが最も大切と考えます。
- 家庭環境の問題では・・・?
- 一人の担任が生徒一人一人をどこまでみれるのか疑問が残る。
- 意欲関心をいかに把握するかが問題。
- 意欲や関心を他人が測定してもいい物かと思います。
- 意欲や関心も大切だと思うけどい修譴鬚海覆糠塾呂良床舛睇・廚世隼廚Δ・蕁・。
- 意欲や関心があっても、表にでるかどうかは人それぞれ、では?
- 意欲・関心を高めるような教育プログラムになっていて評価をするのなら問題ないが、評価だけするというのであれば問題だと思う。既に、今の若い人たちには意欲・関心という言葉はとても感じられない。
- 意欲・関心なんて、教師の教え方や接し方次第で変わると思う。だから、この項目は、教師本人への評価になるんじゃないですか?
- 意欲・関心だけでは、将来やっていけない。
- 意欲・関心があれば、ふつう今の評価制度でもいい評価がつくはずだから。
- 意欲、関心の対象は??学校生活だけで判断できるのかしら?
- よく意味が分からない。
- よくわからない
- やる気はさまざまな事に結びついて行きますね。大事な事です。ただ、評価する側に、むしろ問題を感じますが。
- メリット・デメリット半ば。
- まんざら悪くは無いのかも?
- まだうちの子は入学してないので実感できない
- ないことは問題だ
- どうやって評価するのか疑問。意欲や関心が他人に判断できるのか?
- それを判定する教師の質の向上が望まれます
- そればかりがど床舛梁仂櫃箸呂おかしいと思う。
- それって先生の胸ひとつという気もする。
- それぞれの子供次第
- この事だけではないから!
- きちんとものが見える教師による評価なら問題はないと思います。
- 幼時の家庭の躾が大切だが、躾を知らない親が多い
- 問題かどうかはその評価された子供の受け入れ方であり、本人の責任でる。
- 平等な評価は難しい
- 評価をする教師の質で決まる
- 評価する側の方が問題
- 判断が難しいと思う
- 様子をみなければわからない
- 先生一個人が判断できるものではないと思う
- 先生の主観が入らなければいいと思う。
- 人それぞれ興味を持つ内容は違うから
- 上手に指導できれば、子供を大きく伸ばせると思います。
- 十人十色
- 質問の意味が良く解らない
- 指導者の熱意と受ける側の問題
- 思春期の子供が自分は意欲があると表現するのは難しい。
- 子供は関心のある事には異常に意欲を持つのがあたりまえで、教師の希望する事に関心を持たなかったからといって、評価かが下がると言う事が、起こりそう。
- 子供は意外に敏感。大人の望む答えを模倣しようとすることもある。そのため子供の本当の関心が消されることもゥァヾ靄榲・砲六神・」
- 子供たちには、学ぶ意義をまず教えるべき。
- 教師の主観がかなりはいるのではないか
- 教師が生徒全員に目を配るのは不可能
- 教師が見抜けるものでしょうか?中には教師に対するときだけポーズをする生徒が生まれてくるのでは?
- 客観的な判断がしにくいのではないか
- 学力の評価がおろそかになりそう
- 学校の先生に問題あり
- 学校だけの問題だけではなく家庭にも問題がある
- 果たして、意欲・関心というものが、指導者の主観に寄らずに測れるものなのかわからないから。
- 何事も本人次第
- 意欲関心を掻き立てるのが教育者のやるべきことだと思う。
- 意欲関心は当人の心の問題なので外からの関与は難しいから。
- 意欲や関心は大切なことだけど、それよりももっと必要なことがあるでしょ。
- 意欲や関心なんてどうやって判断するのか疑問
- 意欲の起きる環境とものがあれば意欲・関心は嫌でも起きると思うから
- 意欲・関心だけじゃなく、理解度が大切だと思う
- むずかしい・・
- どうやって評価するのか曖昧。
- それを判断する側に問題はないだろうか?
- その評価をもって何をするかが問題であるから。
- その時になってみないと判らない
- う~ん、決めすぎるのはどうなのかよ、柔軟に
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投稿者:狸穴猫
1-6)自由意見欄に寄せられた教育に関するご意見 【第1回 2000/07~08】< TOP >2-2)子どものゆとりに関する認識調査 【第2回 2000/10~11】